こちらもあちらも引き寄せ遠ざけ進み巡る中で出会い、消せぬ重なりでも一つだけは信じる

別れが悲しいのは出会っているからだ。
出会っていないものには別れも来ないし、悲しくもない。

悲しいのは、それがあったのになくなってしまったこと、そして二度と出会えないと思えるからだ。
又会えると思えるものに人は悲しみを持たない。


何故人は何かに出会うのだろう?
生まれた時から巡り合わせるしかない出会いもあれば、生まれて色々なことがあった後にだけ巡り合うことになる出会いもある。

出会いの在り方も出会いに対する出会う自分の気持ちも、それぞれ全く違って一つとして同じものはない。


事実は時と共に積み重なる。
でも事実は向こうからただやってくるのではない。
かと言って全て自分でやってこさせているのでもないし、自分で敢えてこさせていることがあったとしても、それはほんの一部だけ、でも全て向こうからやってくるだけではない。

自分が決めたから、向こうもそれに応じてやってくる、それはある。

出会っていつも良かったと思える出会いもあれば、出会わなければ良かったと思える出会いもある。

でも出会ったものを出会わなかったものにすることはできない。
でも、どんなに出会わなければ良かったとしか思えないものであっても、それは出会わなかったものが無数にあることの中から出会えてきていることなのだ。
たとえ、それがどんなに残酷なことであっても。



どうして人は何かに巡り合う度に、それを出会いに換えていくのだろう?巡り合っても全てその都度忘れてしまえれば、こんなに楽なことってないだろうに。

でも人は巡り合う中の全てでなくても、幾つかは必ず出会いにする。


その時は通り過ぎてすっかり忘れてしまっていることでも、後で思い出し、忘れられなくなることだってある。



木でも草でも物でも何でも、巡り合った事実だけは必ず、そこに残る。
でもそれを出会いにするわけではない。
僕達は違う。巡り合った何かは必ず出会いになる。
だから、その後でそれと別れることになれば、悲しいこともあるし、せいせいすることもある。

別れ悲しいことも、別れせいせいすることも、共に別れた後も生きていかなければいけないことの中では、思い出しもし、忘れたくもあるけれど、時が事実を重ねさせても、決してどの巡り合った事実も消すことだけはできないのは同じだ。

時による順が変わらない事実の重なりだけが生きてきた、という記憶の全てであるなら、時だけが事実を消させない永遠に僕達に勝てない善悪を超越した力だって思えるからこそ、時だけでもせめて自分の味方にしようって思うしかない、と僕達にそう決めさせる。



変えられない巡り合いの事実は、悲しいことなのか、空しいことなのか、それとも素晴らしいことなのか、それを決めるのは自分だけだ。
きっと、どんな自分にとっても人は勝手にそれを決めていると知っている。

時は、だから人の数だけ在り方は色々で、でも誰かにだけ時は多く与えられてもいない。

只巡り合う事実、それは向こうからのこともあれば、こちらからのこともあるけれど、それだけは消せないということだけは、誰も全く変わりない。


消せない事実の在り方を、未来へ向けて良かったことなのか、そうでないのか変えられるのは、常に誰にとっても自分だけだ。

時と事実が重なることと、重なった全ての事実が消せないことと、それを活かすか殺すかは自分だけということだけ、誰にも神からも教えては貰えぬたった一つの、これも消せない可能性だ。



暗い夜道に迷った時には、それを明るく燦燦と降り注ぐ太陽の光線を浴びて照り返す大海原に換えていくしかない。

湿ってごつごつした山肌で迷った時には、それをなだらかに下って行ける丘に換えていくしかない。

だけど、そこに来たことだけは変えられない。



消せない巡り合いを、向こうからやってきただけでなく、こちらから引き寄せもしたとすれば、僕達は一体時に対して何をしていけばよいのだろう?


何もできはしないかも知れない。
それでも消せない重なった巡り合いの順を、別の可能性へ置き換えていくたった一つの可能性だけ捨てずにおこう。


全ての悲しみ、苦しみ、空しさ、喜び、ほっと安堵の気持ちは、きっとその中にだけ息衝いているのだから。


(了)
(2018. 11. 6)
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唯一の出来事へどう回帰するか?しかし、それはたった一つの正しい在り方へ収斂され得るか?

生は死へ向かっている。
生は死をもって生を規定する。
生きていることは、生きている限り存在し続けることを志向する。
だが、それは或る日突如中断される。
だがその中断は一切再開を意味しない。
一切の再開を意味しないものだけが死である。
 
生は死のために為される訳ではない。
だが死は避けられない。
死の避けられなさは、生を奇蹟へと押し上げる。
創造は存在の創造をもってして初めて神の域を作る。
創造されて在ることは、我々自身を創造物と見做すことだ。
 
無が存在を作っているのか?
もしそうなら、無は有であることを押し上げる力となり、それは完全なる無ではない。
なら無を突如有、存在へと換えることは神そのものなのか?
それが神なら、神とは奇蹟そのことであり、且つそれはたった一回だけ起きたことである。
その唯一性が、全ての偶然はその唯一の出来事に帰着し、全ての必然もその唯一の出来事の系列で起きることとなる。
 
存在の矛盾はあらゆる世界での出来事として表出する。
世界は決して安定へは向かわない。
刻一刻と破滅へ向かっているとも言える。
創造されたものは創造した者へ、或いはその帰着を破滅、破壊という形で示すしかないのか?
 
自由とはあり得るのか?
自由は自由の奴隷として全ての存在者を束縛へと駆り立てる。
一切の苦しみはあらゆる創造を巡る教条から作り出される。
だが、どこを探しても誰もが等しく信じられる正しさを見出すことは誰にもできない。
破壊を潜り抜けて初めて獲得する創造を見るだけの、時間的、精神的、安定的可能性を我々は果たして付与されているのだろうか?
 
自由に猶予はあり得るのか?
我々はいつも只全く何処へ向かう目的もなく、只管うろつき、まごつき迷いだけの世界の中で独楽鼠の様に動かされているだけなのか?
答えを求めるべきではないかも知れない。
答えは何処かに在るのではなく、取り敢えず在るものとしようということだった筈だから。
 
全ての存在者はたった一つの在るべき方向へ向かって只管突進しているだけなのだろうか?
否、そうではないという往生際の悪さだけが全ての闘争の父ではないのか?
否、闘争の末に一つの安定した理想の自然とは到来するのだろうか?
否、その獲得への願望自体が一つの大いなる幻影に導かれた迷妄なのか?
答えはない。只我々は進む。
しかし光だけはどんな絶望の下でも確認し得る。
 
光を求めて進むしかない我々は、唯一の出来事の本質へと向かって進む向かう先の一切見えない時の旅人である。
だがその本質への旅は、恐らく全ての存在者で中断される。
だが全ての中断が延々と繰り返されることの内で、向かう先の光が何かを語りかけてくる時、我々はその語りを神の声に換え、自由が作る死の到来の絶対的虚無から、唯一救いとなる心の灯としていくだろう。
 
明日同じ想念が繰り返されるとは限らない。
だがきっと全く今日と無関係の明日が到来することもない。
 
赦し、それは全てが何かを規定しても、その此岸と彼岸を分かつ対が作り出され得る永劫反転し続ける惰性的反復の持つ曖昧な、しかし広大な緩衝地帯の中に常に我々が放り込まれていることの事実の中からだけ規定し得る。
 
今日と明日の絶対的非無関係性だけが、今この時点に於いてだけ言える唯一のことである。
それ以外の真理を我々は決して見出せないことに於いて全存在者が相同であることだけが、どの存在者の心にも灯される光の在り処だ、とだけ言える。
 
赦し、それは信じることの唯一の<唯一の出来事>への回帰であり、全ての創造の故郷である。
 
(了)
(2017. 11. 7)



 付記 最初に掲載(アップ)した<何か叫ぶ為のブログ>のヴァージョンで最後に示された「赦し」の語彙を絶対とした。勿論それが原意だが、英語翻訳ヴァージョン(examplewordpresscom1616とlovehetehimのblog)ではその翻訳をabsolutenessとせず、敢えてabsolution というキリスト教倫理根本教義的な概念へ置き換えた。存在は寧ろ宗教的には倫理的に解釈すべきと判断したからである。日本語や日本文化に赦しという思想・発想はない。でも今日程そういったものが求められている時代は無いと思うので、本ブログにオリジナルを採録する際、そう置き換えた。私としてはいずれでもいい、と考えている。

人は誰にも何にも縛れない

人に無理強いして自分を好きにさせることはできない。
人に無理強いして楽しくないことを楽しくさせることはできない。

絵とは人は好きな絵、凄くいいと自然に思える絵にしか感動しない。
感動は人へ押し付けられない。
逆に他の人からしたら、こんなものにだけ感動する、そういうものにしか感動できないということを、変えさせることもできない。

人は人をこれが正しいことだということに縛ることはできない。
人にはそれぞれ正しさに関して少しずつ違う考えがある。

人は好きな相手には好きな感情が、好きになれない相手には好きになれない感情が、嫌いな相手には嫌いな感情、気持ちが必ず伝わる。

自分は神でないのに神の様な人を自分を差し置いて称え、そうでないと自分で思える人に、自分にとっての神へ従えと言える人はいない。でも知らず知らずにそうしようとしている人は大勢居る。
そういう人から従わされそうになることを楽しいとか嬉しいと思える人は居ない。
だけど世の中で教育とされていることに、何とそういうものが多いことか!

人の気持ちは自由に空へ飛んで行こうとする鳥だ。

愛は決して無理強いできない。
感動は決して強制できない。
人それぞれ愛の在り方は違う。
感動の仕方、感動する対象も人それぞれ違う。

つい笑えてしまうことも人それぞれ違う。
自分はこの芸人には笑えるけれど、あの芸人には笑えない、面白いと思えないということはある。

何をいいと思えるか、何に感動できるかは、他の何かをそれ程いいと思えないことだから、一つの戦いなのだ。
でもそんなことで一々戦っていては、何も進まないから、皆できるだけそれには触れない様にしているだけだ。
何を尊敬できるか、誰を尊敬できるか、何が正しいと思えるかもだ。

絵を発表する人にとって素直な鑑賞者は、見た絵をいいと思ったら、感動した表情になり、そうでなければ、がっかりした表情になる人だ。
それは絵でなくても、文学作品でも、映画でも、舞台演劇でも、お笑い演芸でも、何でも同じだ。

だから創作する人にとって、鑑賞者とは、一所懸命くどうこうとして、なかなかくどき落とせない男にとって理想の女性だ。
だから一々ふられた女性に拘っているくらいなら、一切創作なんてしない方がいい。

人の心はどこにでも自由に泳ぎ去ってゆく魚だ。

人はどんなに地上を支配していても、森は蛇に、地下は土竜には敵わない。たとえ猪でも、彼等を完全支配できない。
(10. 21修正24)


ある人々の纏まりに居る人は、別の纏まりの一人と関わって、とても巧くいったとしても、その時だけで、又自分が普段居る纏まりに戻ると、その外での出会いが仇(あだ)となる。

それは職業、考え方、趣味嗜好、国、民族、性別、どれでも同じだ。

人には辛いことがある。
でも耐えて心を鎮めれば、何とかなるなら人に打ち明けない方がいい。
打ち明けることで却って苦悩が深まりもするから。
少し時が経ってから誰かに聴いて貰えるなら、それもいい。

でも何でもこれさえすれば何とかなるという様なものはない。

人の心は縛れない。何からも、誰からも。
だから人の心を何とかしようと思う人の心を人は踏み付けたがる。知らず知らずに意地悪をし始め、それでいてそういう自分を正当化し、そういう人同士で集まり結束する。
それが正義になる。
その正義から外れた人は異常と見做される。
(10. 21修正24)


夢は人が眠っている間、夢見ている人を縛ろうとする。
でも夢は人が起きている時の行動や考えを縛ることはできない。

どんな覚醒した意識でも、眠っている時の自分までは縛れない。
人とは何事からも縛られることを只管拒絶する様に生まれついている。
だから常に人の心だけが多くの耐え難い問題も作り出している。
人の心の自由さ以上に残酷なものは、この世界にはない。❄

でも眠っている時に夢を見させているのは覚醒した心の願いだ。
夢が悪も作る。
夢が悪を覚醒した時の為にも用意する。
お前もいつもやられてばかりでは駄目だ、と言い諭し、もっと立ち向かっていけと闘争をそれとなく入れ知恵する。

人は悪に魅せられもする様に、心の自由の羽を広げる。
何ものにも縛られない心の自由は悪との戦いだ。
悪も作る心の自由の悪との戦いの勝利の戦利品こそ、愛という名の心の自由だ。

でも人は皆死ぬ。
人は死に対して心の自由を得られるか?
人は死からだけは逃れられない。
自由からも愛からも縛られる心をを解き放とうとするものは、誰にも何にも縛れない、という願望だけだ。

死だけが人を絶対縛る。
死を事実として自己に認めることだけが。

だから死を拒まず、素直に受け入れることだけが心の自由が為せる最期の希望だ。
死だけが生全てを夢に変える。

そう、だからその時迄、僕達は皆誰にも何にも縛れない心の在り方だけを縁(よすが)に、夢と心の願いと悪と悪との戦いに明け暮れて、愛という名の心の自由を見出してゆくしかない。

そう、それだけは疑いたくはない、何かとして。
(10. 30、❄迄が29、修正30)

(了)

曲線

あらゆる偶然って君が作っている。
曲線、君はいつも気まぐれなのに、一切意志とは関係なく作られている。
かと思えば、すっかり進化の必然的成り行きに沿って作られる。
 
僕達って一体何と君の持つ魔力にやるせなく魅せられ、翻弄されてきたことだろう?
君の危ない美しさの虜となり、身を滅ぼしてきた者達は数知れず、その終わりの道行はいつも直線的だった。
 
君は自然の宇宙の到る所で実現されている。
球の持つ曲線のとりとめのない完全さから、全く無秩序で完全に未完成であることの全ては、世界の、宇宙の、現実の大半なんだよね。
君無しに僕達は一切動けないし、存在もできない。
なのに、君自身はいつも何も語らない。
君を君たらしめているのは一体何なのか、教えてはくれないのかい?
 
君は直線とどこかでは策謀しているのかい?
そんなこと俺は知っちゃいない、そう君はいつも言い放っているかの様だぜ。
だって君はいつどこでも見られるのに、君ったら君自身の気持ちなんて一切僕達には語ってくれやしないんだから。
 
君には感謝もするし、恐れもするし、関心を持ちもするし、無視もするさ、だって君なしに僕達も、世界も、宇宙も、真理も決して成り立ちはしないんだからさ。
 
でも、ほら今も君は元気に世界の全ての場面で、まるで存在それ自体の動きと変化を証明するかの如く跳び跳ね、舞い、世界の宇宙の全ての眼差しを向けさせている。
(了)
 
(2017. 10. 24, 修正25)

直線

一瞬で分かる走りが君だ。
君は空と時を一気に切り裂く。
どうして、そんなに潔いんだい、一体君って奴は。
その迷いの無さ、狼狽えることなく走り、静かに消え入る。
或いは突然途切れる。
どうして、そんなにすっきりとしているんだい、一体君って奴は?
 
君を見ていると僕の心の蟠りがとってもちっちゃく思えてくるよ。
僕達の世界の理解って、そんなややこしくなんてないんだ。
いつもとっても単純で、いつもとっても直ぐ全部分かっちゃう。
そうなんだ。これくらい明快な空の寸断と、あらゆる難しさを蹴散らせる君って奴は、本当に凄いよね。
それに比べれば僕達なんて皆ちっぽけなもんだよ。
 
君を見ていると、余りにもあっさり全てが決しているもんだから、僕はもうとってもやりきれないよ。
まるで何も決められない自分がバカみたい。
 
僕達の視界は君のおかげではっきりと区切られて見える。
一本だけはっきり分かりもすれば、何本も重ねられもする。
 
でもそんなにはっきりしているのに、暖かく触れることが、こんなにもできないもどかしさ。
一体君って奴はこんな僕をどうしてくれるんだい?
 
僕は最早しっとりと君を握り、しみじみと振れることは諦めた。
それが全てできないからこそ、君は全くもって寸分の隙のなくしゃきっとして鋭いんだよね。
 
いつも有難う、直線君。
僕の眠気をすっかり追い払ってくれて。
(了)

(2017. 10. 22, 修正23)
プロフィール

カワグチミカル

Author:カワグチミカル
 生きていく事は生きている自分の外部の世界の中からその都度自分で必要な何かだけを選び取り、後は潔く全て捨てていく事だ。所詮生きていく事自体にアウトロー性があるという事を覚醒していくという要素がある。
 その時詩を書く行為がウェブサイト上での行為であるが故に、世界への批評となり、世界への批評をする自分を分析する哲学も必要になる。ここに詩と世界への批評と哲学が同一線上に並ぶ。
 その同一線上の地平の発見こそがこのブログの目的である。

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