悪魔の慈悲と救い

理性は肉体と精神に命じる。
慎め、遊ぶな、責任を果たせ、と。
でも理性は固着しやすい。
肉体と精神は結託し理性の教条へ異議申し立てをする。
肉体と精神が示し合わせると悪魔が育つ。

でも悪魔だけが理性の直情を諫められる。
悪魔だけが持ち得る愛と慈しみがある。
理性は責任を全うしようという意志から、休んではいけないと義務的な強迫観念になる。
悪魔だけが理性の融通の利かなさを解き解す優しさとなり、堅い理性への理性になる。

夜は長い。
夜更かしを誘う悪魔が居る。
でも昼間の義務の使命の緊張を和らげる憩いは、夜の悪魔だけが差し伸べてくれる。
深い眠りは決められた就寝を遮る悪魔の誘惑だけが与えてくれる。
夢は明るくも暗くもない。罪への自覚でも清き心への励ましでもない。
夢に寄り掛かる浅き眠りは、一時の退避だ。
夢は夢を見る者を慈しまない。
夢は夢だけの都合で生み出される。

夜明けはいつの間にかやって来る。
その場に立ち会っていても、一瞬で夜を消す。
夜が終わっても時の移ろいは休まない。
さっき迄の情景の記憶が、今の情景を際立たす。

疚しさは理性が生み出す。
夢を疚しさに結び付けるのは義務感だ。
言葉の理性がそれを作る。
義務の教条から自由になるには、肉体と精神の結託にだけ罪を被せるのを断ち切るのだ。
精神だけの崇高さも、肉体だけの不浄さも幻想なのだ。
言葉を意味の義務から解き放て!
(2017. 9. 13, 14)




悪魔の素直な促しだけが赦しだ。
悪魔のエゴサーチが赦しだ。
人の心は神の様に迷いなくは居られない。
悪魔のくれる赦しは遊び心だ。

遊びは義務感と使命への自覚には屈託だけ与える残酷な悪魔の囁きだ。
でも人の心は理性に縛られた侭、全ての時を通り過ぎることはできない。

蝉はなかなか居なくなってはくれない。
暑さは何度もぶり返す。
でも涼しさの中に、木枯らしの種も紛れ込んでいる。
夜になっても昼間の余熱が佇んでいる。
その中を一瞬冬からの贈り物が通り過ぎる。

冬だけが心へ与えてくれる光がある。
悪魔は夜と冬で我々の心を指南する。
遊びと怠惰な放棄を、緊張へと誘い込む。

冬は寒さからの退避を理性と義務から勝ち取るが、悪魔の誘いを正当化させるのは、自然の有無を言わさぬ季節の切り替えと我々のその操作出来なさだ。❄怠惰で居たっていいと悪魔だけが冬に告げてくれる。
冬だからこそ惰眠で過ごすことも寛ぎになる。❄(2017. 9. 15)

心は自然の前では折れる。❄折れてもいい。❄(2017. 9. 15)
理性も信念も正義も自然には通じない。
悪魔の囁く遊びだけが慈悲となり、人の心を救う。

遊びと寛ぎの誘いは悪魔の愛だ。
創造神は自然へ直接力を行使する以外、人の心へは働きかけない。
神に人の心への導きを見出すのは人の心だけだ。

神は悪を持たない。でも我々は違う。
だから神は善悪を超越する。
でも我々は善悪に縛られる。
(2017. 9. 14, 修正15)



我々は悪魔にとりつかれて初めて改心を知る。
神は改心しない。だから神の判断は善を志向しない。
我々は善を悪魔のお陰で見出せる。

遊びの中に遊びで解消したものから、善を導く。
それは悪魔の誘いから世界を見た者だけが知る意志だ。
神は悪魔から誘いを受けないから、我々へ直接慈悲とならず、救いもしない。
だから教典の神は悪魔を知る者の言葉が作り出した神なのだ。

善悪を超越する神に善を見るには、悪魔の慈悲と救いを経ねばならぬ。
遊びは生きて俗に塗れた我々の救いだ。
神に遊びは要らない。
遊びは悪魔が作った我々への慈悲であり、救いだ。
神には救いは要らない。
神自体が神への救いだからだ。❄

神でない者達であると知る我々でこそ知る悪魔。
それが神を善で見る。
悪魔を知る我々だけが持ち得る赦し。
愛は弱さへの赦しだ。
弱さへ慈しむ愛は創造主にはない。

人を知り人の目線で愛を説く者は倫理の神だ。
存在の神に倫理はない。
倫理が神を善に見て、悪魔を対峙させる。
倫理は弱き者の弱さへの自覚と、強くあろうとする願いだ。

昼は多く善を生むが、弱さから悪も生む。❄日陰に悪が育つ。
のろい者を置いてけ堀にする無慈悲な連帯。
集団に沿う心の隙間に生み出される自己保身の心の悪魔。
却って夜こそ無慈悲への悔い改めを育む。

倫理の神から存在の神を見る人の心の心の善への志向。
倫理は弱さで悪へ加担すまいと願う同じ弱き者への赦しの心が生む。
悪魔とのひとときの出会いから、我々は弱き心を強くあれ、と弱き者への赦しから、善を作るのだったら、悪魔の慈悲と赦しは、彼が神のもう一つの姿だと我々は倫理の神から学ぶ。
(了)
(2017. 9. 14, ❄修正16)
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一が多となり、やがて零へ向かう。でも…。

言葉を伝え合う者達が増え、熱が多く作られ、絶えず流動する巨大な雲を作る。

徐々に周期的な季節の巡りに変調を来たし、

❄梅雨は枯れ

長い初夏の後

猛暑来たりて

豪雨が押し寄せ、晴天を奪い

台風過ぎ、暑い晴天来たりたと思わば

涼しき日々来たる。

でも尚雨天を多く持ち、周期を変速させる繁栄が自滅へと我々を誘う。❄(2017. 9. 5❄~❄)

 
有が有であり続けやがて無へと向かう。

生が生であり続けやがて死へと向かう。
 
一が多となり、やがて零へと向かう。

だから多となり過ぎない様に、ひょっとしたら神が調節なさっているんじゃないかって、そう思えるよ。
 


一が多となり、多が時々少になり、多になり過ぎない様にして、
零になるのを遅らせている。
 
おい、そこの荒くれ者よ、だからと言って俺達には構わないでくれよ、お願いだからさ。
 

でも神は僕達全てが登場するずっとずっと前から、僕達が豊かな生活する為に沢山沢山熱を作っていくその基となる全てをとっくに用意してくれていたんだ。

それはとってもとっても多くの実りを僕達の住む星に与えてくれた。

花、果実、川を泳ぐ魚達。

山にはあらゆる生き物が住む。
蛇、蛙、猪、熊、鹿、狐、狸。

僕達に彼等全てを支配する権利なんて本当はないんだ。
 

僕達には時々自らの意志を伝え合う為に言葉がある。

でも僕達の言葉とは違っていても、きっとどの生命種にもその種なりの言葉がある筈だ。

声にはならない動きだけの声、何かを見つめる瞳の向け方だけの声。それ等がきっと言葉になっている。
 

一が多となり、やがて零へ向かう。

僕達は皆その途上にある。

僕達の過ごす時間なんて、宇宙が作られ、我々の星が誕生し、全ての生命が育まれた長い長い時間の中のほんの一瞬でしかない。
 

存在は或る時、奇蹟の様に存在となり、いつかは存在自体が消滅するのだろう。

だが、恐らく神以外、<この存在>以外のどの存在もその中に居るどの個々の存在者も知ることは出来ない。

今ここに在ることと、この在らせるこの場所は、この存在以外の存在にとって、全く何の関わりもないだろう。

でもそうであるなら神は僕達にとっての神以外にも在るのかも知れない。

でもそれぞれの神が全く無関係だとしたら、それら全てを一つに纏める神なんて居ないってことになる。
 


場所、位置は絶対ではない。
空間そのものが全く謎だ。
 
僕達だけでなく、この星に住まう全ての”僕達“にとってもそうである。

いつかは零へと収束する厳密な法には一切逆らえない全ての存在する者達は、意志がある限り、何をするにせよ、いつか終える為に何かし始める。
 
木が実をつけ、花を咲かす様に、
自然にも僕達とは違っていても、それなりの意志がきっとある。
否、川の水を流れさせる岩にも、流れてゆく水にも。
 
この星に存在する多くの一つ一つは全て、一が多になり、やがて零へと向かうその移り変わりの中に位置づけられている。
 
一つ一つの存在する者がどうなるか、それはどの存在する者でも知ることはできない。

果たして神さえ、それを予め知っておられた、と言えようか?

ならば、答えは一つしかない。

どの存在する者にとっても、今この時だけが常に永遠だ、ということだけだ。(2017. 9. 7)

愛、気遣い、存在の向かう先へと

愛は身勝手だ。
愛されることだけを人は欲している訳でない。
気遣いはさり気なく特別に為されないが、為された者は忘れない。
でも感謝も又身勝手だ。

人はたった一人いつも世界に立たされている。
それ以上でもそれ以下でもない。
愛は所有では決してない。
愛は秘かに見守ることだ。そして見守るだけで見守る者の存在を知らせるべきでない。
でも見守られることを誰もが欲している訳でない。


人は自ら何かに惹かれ、自分から好きになり、愛する。
人に何かを愛させることはできない。
愛も愛着も人へ強制はできない。

人は惹かれるもの、こと、影響は自ら自分の意志からだけ決める。
人を何かへ惹かれる様にさせ、愛させることは決してできない。
そう強制された途端、人の心はそのもの、そのことから離れる。

人は勝手にしか何物も何事も愛せない。
人に自分を愛させることもできない。


だから愛は自分勝手だが、その他人の自分勝手を誰もどうすることもできない。
その点では誰もが一人で、誰もが誰をも支配できない。

気遣いは気遣いとして相手に意識させるべきでない。
気遣いも又自分勝手なことであり、それを誰もが望んでいる訳でない。

感情は感情自体に支配され、自分で支配できない。
理性はそのことを承知である我々が勝手に作ったものでしかない。

愛はいつの間にか何処かに飛んで行くこともある。
その気まぐれを自分でもどうすることもできない。
自分の気まぐれさえどうすることもできない我々が他人の気まぐれをどうかすることができようか?
だから自分の気まぐれを許せるなら人の気まぐれも許せ。



本当は誰もが知っている。それらのことを。
でもつい忘れてしまいがちなだけだ。

愛は修正できる。反省もできる。
そういう感情さえ少しでも残していれば。
そうでなければ愛は怨念であり、憎しみになる。
愛は修正と反省の気持ちを失えば、直ぐ怨念と憎しみへ変わる。

人は寛ぎも愛着も尊敬も全て人から強いられれば、必ずそこから逃げる。それは人が誰しも自分自身にもそれを強いることができないからだ。

人の心は同じ方向には絶対に向かない。
気遣いはそのことを承知することから生まれる。
でも気遣いも愛の強制になりやすい。
それも誰もが気づいている。


気づいていることは誰も話題にしない。
でも自分で気づいていることに蓋をしようとする時には、
自分の心の中でそれを問い、語れ。


愛は執着に変われば風と共に何処かへ吹かれて飛び去ってしまう。
愛は執着しないことからしか永続しない。

でもどんな愛でも全て継続させる必要もない。
全てへ拘らず、全てに釘付けにならず、何でもできるなら、それが一番いいけれど、そう簡単には行かない。



記憶の中の愛や執着は過去になればなる程、自らの心では滑稽さしか立ち上がらない。でもその時は明らかに真剣だった。

愛も恋も信念も身勝手さから完全に脱することはできない。
だから気遣いが必要だと思うけれど、気遣いだけが空回りしても何も人には伝えられない。

伝えるべき時には伝えるべきでも、伝えない方がいいことの方が多い。

死は全ての記憶を無かったことにする。
でも生きていることは、無になる為ではない。

何かが伝えられることだけに私達は賭けている。
全てが伝えられなくてもいい。
たった一言何かが人の心に訴えかければ。

勿論人は何時も勝手に誰かの一言を心に留めるだけだ。
それでいい。


何かそれ以上の望みを持つことに意味はない。
それに執着した時、愛も気遣いも風に吹かれて何処かへ飛び去ってしまっているだろう。
空は、雲は、天の司はそれを只可笑しく噴き出しているだけだろう。
その天界の笑いが僕達の生活を脅かす。


望まないで待ち、変えようと思わないで気遣いして、
愛を望まないで何かに尽くす、それは誰かの為でも自分の為でもなく、天界との語りの中だけにあれば、それでいい。



それ以上の何もきっと何も意味しはしないだろう。

(了)


(2017. 9. 2)

雲取山登山七句

崖に沿う 人達歩めば 鹿が啼く
 

鹿啼けば 雄雌知れず いずれもが
(鹿は警戒の雄叫びでは雄雌判別不能)
 

狸の糞 雷焦がす 根と合奏
(両方とも黒く丸く♬の様に見えた)
 

雲海の 地上へ追いやる 天の息
(雲取山頂上は霧が立ち込めていた)
 

頂上見ゆ 小屋の水 止めどなく
 

両神山 雲海から覗く 鋸歯
(白岩山から眺望できる両神山)
 

雨後の霧 三峰の森 霊誘う
 

(2017. 8. 12創作, 13修正)
8. 10, 11の日程での秩父鉄道主催の登山に参加して

岩は死なない

岩は語らない。
只、そこに在る。
岩は砕け散っても石になっても、やがて一つになる。

岩は生きているのかも知れないが、僕達の様には死なない。

でも岩は語りかけてくる。
目に直撃し、心に襲いかかる。(7.29)

岩は水を誘う。
水の流れる先を決定する。

でも夏の暑い時、その火照った表面を水で冷やして貰えるのは
気持ちいいのかい?(7.30)

岩は曇り沈んだ空の下でじっと動かない。
夜寝静まった山に川に横たわり、全ての沈黙を吸収する。

やがて朝日を反射して、澄み切った青空を迎える。(8.1)

岩は死者の魂を彷徨わずに、大地の根っこへ伝えてくれる様に、
引き寄せ、自然を繋ぎとめてくれる。

岩は死なない。
いつも我々の声を聴いていてくれる。(8.2)(了)

(タイトルは7.23, 修正8.3)
プロフィール

カワグチミカル

Author:カワグチミカル
 生きていく事は生きている自分の外部の世界の中からその都度自分で必要な何かだけを選び取り、後は潔く全て捨てていく事だ。所詮生きていく事自体にアウトロー性があるという事を覚醒していくという要素がある。
 その時詩を書く行為がウェブサイト上での行為であるが故に、世界への批評となり、世界への批評をする自分を分析する哲学も必要になる。ここに詩と世界への批評と哲学が同一線上に並ぶ。
 その同一線上の地平の発見こそがこのブログの目的である。

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